『戦場のメリークリスマス』に咲く花について考えたこと

だいぶいい大人になって「戦場のメリークリスマス」を鑑賞し、取り憑かれたように本作と登場人物について考え続けている会社員の感想です。

 

基本的にTwitterに書き散らしたものをまとめたものです。

40年も前の映画でもあり、あらすじを記載せず書き進めています。

また、この文章にはネタバレを多分に含みます。

この感想は個人の妄想ですので、的外れな部分も大いにあり得ます。

以上ご了承ください。

 

 

 

 

戦場のメリークリスマス』は、太平洋戦争中のインドネシアジャワ島の不慮収容所を舞台にした、愛と赦しを描いた群像劇です。戦地という凄絶な環境下での人間模様が、鮮烈で美しく描かれています。

あまりにオタクの心と脳味噌を揺さぶる作品なので、語りたいことは山のようにあるのですが、今回は『戦場のメリークリスマス』に登場する花についての妄想を書いてみたいと思います。

 

タイトル通り戦場を舞台とした『戦場のメリークリスマス』ですが、花が象徴的に描かれている作品であるように私は思う。殺伐とした俘虜収容所を背景にしているからこそ、その対比として花がとても印象に残る。

女性のいない作品だからこそ、女性の比喩として描かれがちな「花」を印象的に描くのは、巧い演出だなあとも思います。

 

そんな、戦場のメリークリスマスで描かれている花は3つあり、1つ目は、自殺したオランダ人俘虜を弔う際にセリアズが摘んだ、濃いオレンジ色の鮮やかなハイビスカスのような南国の花。

2つ目は、セリアズの故郷の庭に咲く花々。

3つ目は、直接その花が銀幕に映ることはないのですが、ヨノイ隊長が言及する「満開の桜」。ロレンスにいう「できることなら君ら全員を招き満開の桜の下で宴会を開きたかった」のセリフのなかのもの。

 

それぞれに製作陣はどんな意図でそれらを登場させたのか。どれも歴戦のオタクとしてこだわりを深読みしたくなります。

 

まずは、セリアズの摘んだ南国の花。

死は白で描かれることが多い本作です。朝鮮人軍属のカネモトのハラキリ、ヤジマ一等兵の葬式、そしてセリアズの埋められる砂と額にとまる蛾。

そんな作品中、このシーンのみ死を扱っているのにもかかわらず「白い花がなかった」とエクスキューズしたうえで鮮やかな色の花が現れます。

たしかに南国に白い花は珍しかろうとも思うのですが(植物について不案内で申し訳ない…)、撮影において用意することは不可能でなかったはずで、あえてのこの色彩であったことはきっと相違ない。

ということは、やはり死のアンチテーゼとしての鮮やかな橙色なのでしょう。そしてそれを食べてしまうセリアズのこの時点での生への希求が表されているように思うのです。セリアズは弟への贖罪を背負いつつも生きようとしていた。

そんなセリアズが最後に死を選ぶ展開になることが、一層その死の哀しさを誘います。

 

脱線しますが白の描き方について、東洋において喪服が黒くなったのは明治期以降キリスト教文化が入ってきたからであり、それ以前は白かった(今でも死装束といえば白ですよね)ということなんかも、東洋と西洋との死生観のギャップも描いているのかなとも思います。

 

単純にボウイのお顔には白よりも輝くようなオレンジ色のほうが映えますよねという大島渚監督の美意識も感じられて、好きです(いや、でも白も天使みが増してよいだろうなとも思う。どっちも見たかったなあ(オタク))。

 

 

セリアズの故郷に咲く庭の花。

 

2度登場する庭(庭というより庭園と書いた方が適切なくらいに立派)は2度とも花の満開の季節です。1度目はセリアズの昔語り、2度目は死にゆくときのセリアズに去来したものなので、きっとセリアズの心象風景が多分に含まれているのだろうなと思わせる、見事な咲きようですです。死を目前にしたときには、5年に一度しか咲かない花が咲いているほど、完璧に花々は咲き誇っています。

きっとその花たちはまさに天国、セリアズの魂の還るべき場所の象徴として描かれているように思う。そして、弟に罪を許されることでセリアズの魂は浄化されるのだろう。

 

けれどもですね。

その美しい花の咲く天国のような場所へ「(5年に一度咲く花が)次に咲くまでに帰ってくる」とセリアズはいうのです。つまりは、魂は醜く血生臭く花もろくに咲かない世俗にありたい、もっというなればヨノイとともにありたいと願っているのではないだろうか。

5年ということは第二次世界大戦終結と同時期。それまでは、ヨノイの行末を見守りたいと思うセリアズの愛なのではなかろうか。

死ぬことで弟からの赦しを受けて、ヨノイを赦すことができたセリアズは、ここでヨノイの神さまになったように、私は思う。

(ヨノイの愛が思いのも大概だけれど、セリアズの愛の大きさも大概だよね)

 

花から少し離れるけれど、萩尾望都先生の『トーマの心臓』冒頭部に、主人公ユリスモールのために自殺をするトーマの心境をうたった詩が、あまりにもこのときのセリアズの気持ちに近いのではないかととても個人的解釈として思うので、引用させてください。

「今彼は死んでいるも同然だ/そして彼を生かすために/ぼくはぼくのからだが打ちくずれるのなんかなんとも思わない(中略)そうして/ぼくはずっと生きている/彼の目の上に」

(『トーマの心臓』もホモソーシャルで育まれる愛と赦しの関係性を描いた作品なので、未読の方はぜひ)

 

 

そして、ヨノイの口にした桜の暗喩のこと。

あまりにも桜のようにぱっと咲いてぱっとと散るヨノイの恋だなと思っていたら、本人が「桜」について口にしていましたね。

 

セリアズの手折った(そういえば「手折る」という言葉には女性を肉体的に手に入れるという意味合いもありますね)花はセリアズに食べられてひとつになるのに、ヨノイの花は散って終わります。

 

とても個人的な見解ですが、ヨノイは自分のセリアズへの恋慕に気づいていなかったのではないか。

ヨノイはとても抑圧の強い、自分の個人としての意識を見て見ぬふりをして、全体に同調するように生きてきた人間のように描かれています。そのため、セリアズへの思慕も無意識下に追いやっていたのではないか。そうでないと優秀な精神科医であるはずのヨノイが、こんなに不器用で小学生のようにあからさまなアプローチをするとは思えない。

なので、私はセリアズにキスをされるまでヨノイは自分の本心に気づいていなかったのではないかと思うのです。

 

そしてセリアズへの恋愛感情に思い至った瞬間に花が咲き、セリアズの愛は自分が求めるところのものではないと気づかされ花が散り、そして散ったからこそセリアズの愛の種がまかれた。

セリアズの種がまかれるためには、ヨノイの花は散って枯れなければならない。つまり、ヨノイの失恋は必然のものであったことが示されているのではないかと私は考えます。

 

原作の原題は『The Seed and Sower』(種と種をまく人)であり、ロレンスが物語の最後にいったように、セリアズはヨノイに実のなる種をまきました。

種が芽生えて咲く花は、どんなものだったのでしょう。

それが鑑賞者に委ねられているところが、戦場のメリークリスマスを好きな作品である理由のひとつでもあります。

 

そんな戦場に散ったヨノイの恋ですが、一方のセリアズの還る場所には花が咲き乱れています。この対比が鑑賞者の心に訴えるものがあるなと思う(戦場のメリークリスマスはヨノイとセリアズの関係性とハラとロレンスの関係性に始まり、死の白さといきることにもがく夜の闇など、対になるものをつくって描いているからよりそれぞれの美しさが際立っていますよね)。

美しい花の咲く楽園から出て、花が散った場所へとセリアズは戻る。自分がヨノイにまいた種が芽吹いてもう一度花が咲き、実るのを見守るために。

セリアズ、愛が大きすぎるよ…。

 

 

ヨノイの桜が言及される「できることなら君ら全員を招き満開の桜の下で宴会を開きたかった」というセリフですが、信頼関係ができているとはいえ敵兵に軍士官がかける一言としてはあまりにも呑気。

これは、無意識下にあるセリアズへの恋に浮かれているからこそ出たセリフなのではないでしょうか。

満開の桜は幽玄ですが、人の理性の箍をゆるめてしまうような側面もあります。そんな側面も、浮き浮きとしたヨノイの気持ちを表しているように思うのです。鉄仮面みたいな顔をしているけれど、ヨノイ、きみも人間なんだよね。

そしてなにより、「君ら全員」のなかにセリアズは含まれている。というより筆頭となるのがセリアズなのだろう。

好きな人と酒を酌み交わしたいというヨノイのささやかだけれども、戦場では叶いようのない願いが、この状況をより物哀しくさせているように感じます。

 

 

人間の営みは花のように美しいけれども、自らを律する力などかくも簡単になくなり、どこまでも醜くなり得る。

そんな反戦メッセージを訴えかけるのが『戦場のメリークリスマス』であり、大島渚作品だと、沖縄慰霊の日に考えました。

 

戦争なんてものがこの世の中に今も昔もこれからも存在せず、ただ『戦メリ』のみんなが戦争映画でなくて、桜の下で宴会しているだけの映画(大島渚の腕をもってしてもぜったいつまんないけど、めちゃくちゃ観たいな…)とかしかつくれないみたいな世界線に生まれたかったな。

 

それでも、大島監督のメッセージを受けとった戦後を生きるものとして、映画を観て資料にあたって戦争を考え続けないといけないのだと思う。

 

 

まだまだ「戦メリからみる恋と愛のちがい」だとか「トーマの心臓と戦メリ」だとか「戦メリにおける東洋的宗教観と倫理観、西洋的宗教観と倫理観」だとか「戦メリにおける音楽」だとか、考えてみたいことは山ほどあるのですが、このあたりで筆を置きます(そもそもいろいろな分野にあまりにも不勉強なので、どこまで考察を深められるかまったく自信がないのは見て見ぬふりをしつつ)。